「スタジオの魔術師トッド・ラングレン」Something/Anything : Todd Rungdren / サムシング・エニシング : トッド・ラングレン

 トッドラングレン様です。とっても才能があります。すごく変わってます。大変なオタクです。業界内では「スタジオ仙人」「スタジオの魔術師」とまことしやかに囁かれています。
歌を歌い、マルチに楽器を演奏、エンジニアもでき、プロデューサーもこなします。
趣味と仕事が一緒という典型です。なので器用すぎる故、たまに常人には理解し難いことをやります。

などと言っていると「ちょっと距離をおいた方が・・」とか「近づくにはそれなりの覚悟を持って・・」とか思ってしまい「あっ、そういうのはいいです。だ、大丈夫です」と遠回しに敬遠したくなるかもしれません。
でも実際は彼の作る音楽は至って軟弱です。
いや、言い方が間違っていますね。ポップで聞きやすいものです。

昔からロックファンの間では「ロック界の3大顔の長いミュージシャン」としてピンク・フロイドのロジャー・ウォータース、ラッシュのゲディ・リーと共に名前が挙げられていました。(この人らは音楽面も含めて見た目以外なんの共通点もありません)
個人的には顔の長い人は丸いサングラスが似合うので、憧れていました。

故あって、エアロスミスのスティーヴン・タイラーの娘、女優で映画アルマゲドンにも出ていたリヴ・タイラーを引き取って育てていました。
エリック・クラプトンがクリーム時代に使用したサイケデリック・ペイントのギブソン SGをもらい受けて使っていました。
ジャニス・ジョプリンに嫌われて「パール」のプロデューサーを下ろされましたが、ザ・バンドのサードアルバム「ステージ・フライト」は歴史的名盤に仕上げました。

などと思いつくことを書いてもなんら説明になっていません。何十年にもわたって人にはできない個性的な音楽活動をしていますので、的確には伝えられません。
と言いながらも、いつかはちゃんと聞いてみたい人リストの一人として、アルバムは結構持っています。

トッド・ラングレンは2017年にバークリー音楽院の卒業式で祝辞を述べました。ご本人の口から語られる音楽観は貴重です。その時の様子がこの映像です。本章の最後に和訳したものを付けておきます。

来歴

トッド は1948年6月22日、ペンシルヴァニア州フィラデルフィアに生まれました。
1960年代のビートルズやローリング・ストーンズなどのブリティッシュ・インヴェンションに影響されて、音楽を始めました。
1967年からプロミュージシャンとして活動しています。最初は「ナッズ」というバンドでデビューしてアルバムを3枚リリースしました。サムシング/エニシングに収録されてされている「Hello It’s Me」はこの時代のセルフカバーです。
1969年に解散した後はソロとして活動し、知る人ぞ知るスタジオオタクぶりを発揮していきます。

そして1972年3月には一人マルチプレイの多重録音で「サムシング/エニシング」をリリースしました。このアルバムは当時、LP2枚組4面の大作です。
そして4面を除いて他は一人マルチプレイで作られました。
そういう人なので1973年には当初ライブツァー用バンドとして考えていたバンド「ユートピア 」を結成します。
でも、そちらにも何か感じたのかユートピア 名義でもアルバムをリリースしていきます。

「サムシング/エニシング」はその後も長い期間、高く評価されるアルバムになりました。と言ってもマニアックな音楽ですけどね。名曲「アイ・ソー・ザ ・ライト」は時間を超えて聴き継がれています。

アルバム全体を見ると4面のいろんなミュージシャンが関わっている音に広がりを感じます。でもトッド・ラングレンが好きな人は1、2、3面の一人でコツコツ創った狭い世界(全く表現が適切ではありませんが)にも替えがたい魅力を感じるのです。

アルバム「サムシング・エニシング」のご紹介

*参考としてyoutube音源をリンクさせていただきます。

Side1  A Bouquet of Ear-Catching Melody
1,   I Saw The Light 瞳の中の愛


シン
プルな内容の歌詞でメロディは抜群、名曲です。ちょっと捻ったポップスというところでしょうか。


2,   It Wouldn’t Have Made Any Difference 所詮は同じこと

失恋の歌です。メエロディはポップで最高です。


3,   Wolfman Jack ウルフマン・ジャック

1970年代、米軍の放送でDJをしているウルフマン・ジャックが流行ったことがありました。懐かしい思い出です。


4,   Cold Morning Light 冷たい朝の光

これも上質のメロディですね。


5,   It Takes Two to Tango (This Is for the Girls) イット・テイクス・トゥー・トゥ・タンゴ

子供の頃の切ない思い出でしょうか。リズムがいいです。


6,   Sweet Memories 甘い思い出

ドラマチックに出てきました。トッド の場合、大袈裟でもクサイ感じが不思議とありません。


Side2  The Cerebral Side
1,   Intro イントロ


テープ編集している会話です。


2,   Breathless    ブレスレス

遊んでます。


3,   The Night the Carousel Burnt Down ザ・ナイト・ザ・カルーセル・バーント・ダウン

3拍子でなぜかビートルズの「サージャント ・ペパー」あたりを思い浮かべます。


4,   Saving Grace    セイヴィング・グレイス

テープの音声遊びに始まりビーチボーイズ 風のメロディが出てきます。


5,   Marlene マーリーン

ロックではほとんど使われないマリンバが活躍します。純粋な愛のうた。


6,   Song of the Viking ソング・オブ・ザ・ヴァイキング

御伽噺です。結構リズミカルでひねった曲調です。


7,   I Went to the Mirror アイ・ウエント・トゥ・ザ・ミラー

病的な部分が垣間見える曲ですね。笑って聞き流すしかありません。珍しくポップ感がありません。こういう曲なのに盛り上がって終わります。


Side3   The Kid Gets Heavy
1,   Black Maria ブラック・マリア


歌い方、ポール・ロジャース風、サウンド、時々ジミ ・ヘンドリクス風、という感じで遊んでます。ややヘビィーな曲調です。


2,   One More Day ワン・モア・デイ

一見、正統派SSWという感じです。


3,   Couldn’t I Just Tell You 伝えずにいられない

ドラムで始まって一旦ストップ、ノリの良いロックな曲が始まります。こういう曲だったらいくらでもトッド は書けそうです。ある意味雰囲気は80年代の先取りです。


4,   Torch Song トーチ・ソング

敬虔な歌です。普通のピアノの音で録音したほうが合うなとつい思ってしまいます。


5,   Little Red Light 小さな赤い灯

タイトルに似合わずヘヴィーに始まります。いろいろ遊んでます。


Side4   Baby Needs a New Pair of Snakeskin Boots (A Pop Operetta)
1,   Overture My roots    オーバーチュア・マイ・ルーツ
・Money (That What I Want)   マネー
・Messin’ With the Kid  メッシン・ウイズ・ザ・キッド


音をチープに加工して狭いライブハウス感を出してます。なんお脈絡もなく曲が変わります。カセットデッキで生録した感じが欲しかったのですね。


2,   Dust in the Wind ダスト・イン・ザ・ウインド

流石に一人マルチプレイでは出せない広がりを感じます。


3,   Piss Aaron    ピス・アーロン

中期キンクス にも通じるアイロニーを感じます。


4,   Hello It’s Me   ハロー・イッツ・ミー

セルフカバーです。これまた名曲です。内容はキャロル・キングの「ユー・ガッタ・フレンド」風です。


5,   Some Folks Is Even Whiter Than Me   サム・フォークス・イヴン・ホワイター・ザン・ミー

何か思うところがあったのでしょう。ポール・サイモンとかも同じように時々弾けた歌詞を書きます。


6,   You Left Me Sore ユー・レフト・ミー・ソア

3回やり直して始まります。いつもの安定のトッド・ラングレンです。途中無理に引っ張って、笑い声で止まりそうになります。なんとかギターソロまで行って¥終了です。


7,   Slut スラット

最後は馬鹿騒ぎ的な曲で締めるんですね。

普通の人はサイド1、2がポップでメロディがよく、楽しめると思います。その後だんだん偏執狂的になっていくんです。

Bitly



以下、2017年バークリー音楽院 卒業式祝辞の和訳です。

トッド・ラングレン氏の初めての卒業式スピーチ

トッド・ラングレン氏:許可を得たので、帽子を外します。よかったです。サングラスなんですが、みなさんが聞いている間、もし何も見えなければその分いい感じに話せると思いますので、よろしくお願いします。

卒業生のみなさんにお祝いの言葉を言わせてください。私は、この日がみなさんとご家族において、もっとも大切で記念すべき日だとわかっています。そしてこのセレモニーのために参加しているみなさんに、特別な感謝を言わせてください。あなた方は、バークリー音楽院の評価をただ切に高めてきました。私は、みなさんが自分自身を誇りに思うべきだということと同様に、この学校があなた方を誇りに思うことを確信しています。

私は公の場でスピーチすることには慣れていますし、実際に何度もしてきました。しかし、卒業の場でのスピーチは初めてで、おそらくみなさん、私が何をすべきかという可能性の全てをすでに知っているため、まるでその結果は満場一致の喜び、あるいは集団自決となってしまうのかと、私が何か悪いことをやらかすだろうと心配したかもしれません。もし私がきちんとしなかったらね。

しかし、何がもっとも私を混乱させたかというと、私が今ここに立っていること、そして学術の分野においてとてつもなくすばらしい経歴を与えられるという栄光を受け取っていることです。

私は、ルシンダと同じように、なんとか高校を卒業しました。大学には進学しませんでした。私はバークリー音楽学校レベルのテストに合格しなかったでしょう。決してオーディションに合格しなかったでしょう。そして、今日になっても、どうやって音楽を読むのかわかりません。

(会場歓声)

いいですね。明らかに、あなた方は理論の授業が嫌いでしょう。この事実が重なって、私は、個人的に今まで一度も1位のシングルやアルバムがありません。グラミー賞にノミネートされたことも、ありがたいことにロックの殿堂にノミネートされたこともありません。

もしノミネートされていたら、私は走り続けてこなかったでしょう。もし選出されていたら、私はミュージシャンとしてここまで来れなかったでしょう。

したがって、私がみなさんに与えることができるのは、私のストーリー、そしてみなさんにその結末を描かせることだという結論に至りました。

自分自身を路上で見出した

私が大人になった時知ったことの1つは、私はミュージシャンだということです。そして不幸なことに、私が育った環境にいた全員にとってそれは重要なことではありませんでした。

私は最低な学生でした。私は学校で興味があることだけをしたかったのですが、すぐに興味を失いました。なんとか高校を卒業するまで続いた、俗にいう学生生活において、私は壊滅的でした。

私は、自分自身を路上で見出しました。その時点で2つ可能なことがありました。1つは、がんばって仕事をみつけ、お金を集めてエンジニア学校へ行き、コンピュータープログラムを学ぶことです。なぜならそれは私の興味外のことだったからです。

もう1つは、ミュージシャンとして賭けてみること。つまり、何週間か道で過ごし、幸運だったらフィラデルフィアでバンドを組む道を見つけるということでした。まあ、そのバンドをあなた方は知らないでしょうね。しかし、私がギタリストだった時、私はギターの虜でした。言葉の通り、虜でした。これが私の人生で大切になった唯一のものでした。

今やっている作曲のことは考えませんでした。前の方に立って歌うなんていう才能があるとも感じませんでした。ギターが私にとてもぴったりで、周囲の人々を感動させるのに十分なテクニックを磨くことはできました。そして実際、地元のブルースバンドで仕事を得ることができたのです。

このバンドは長くは続きませんでした。なぜなら、音楽業界で大変動があり、私のバンドの全員がブラックミュージックを演奏する白人集団のポール・バターフィールドというバンドのコピーをしていました。そして、彼らがグレイトフル・デッドというバンドを発見するとすぐに、考え込んでしまいました。私は、それに我慢ならず、後に18ヶ月続くNazzというバンドを作りました。そして、再び、路上で私自身を見つけたのです。

このことは、Nazzが発見されたということ以上にこの後の人生を決める出来事だったと思います。なぜなら、これは二度と再現できない偶然であり、その時までに路上で私の道を見つけたからなのです。

おそらく、私はギターを持っていませんでした。私はまだミュージシャンでしたが、演奏する楽器を持っていなかった。そして、得ることができた仕事をに就きました。ディスコのデザイニングライトの紐を巻き上げ、ウェストヴィレッジで洋服屋と一緒に生活しました。ちなみに、このことは私のセンスに影響を与えました。

しかし、仕事で良い功績を残すことができ、そしてアルベルト・クロスマン・オーガニゼーションに入ることができて、私は幸運でした。オーガニゼーションは、世界でこの上なくすばらしく、信頼できるものでした。アルベルト・グロスマンは、世界での最上級のマネージャーです。そして彼らはその時レコードビジネスを始めようとしていたところで、私に参加して60年代にさらに新しくなった多くのフォーク歌手とコンタクトをとるよう促したのです。

それがその時に起こったことすべてです。

そして突破口が訪れる

そして私は、イアン&シルヴィア、ジェイムス・コットンといった伝説的にすばらしいアーティストや歌手と同様に、新しいアーティストたちとも仕事を共にしました。

私の大きな突破口は、私がザ・バンドの、3枚目のアルバムだったと思いますが、ステージフライトの作成に携わっていた時です。そこから、私はとても成功したプロデューサーとなりました。

その時、自分のプロジェクトのためにレコードを作ることに突然興味が湧きました。パフォーマーになりたいという気持ちはありませんでした。私はただ、自分のレコードを作る権利があると感じたのです。

私はまだ曲を書いていましたし、実際それについて学んでもいました。私には少しヒットした、『We Gotta Get You a Woman』というレコードがあります。軍事フェミニストが歌詞を誤解し、駅を爆破すると脅迫されるまで、この曲は実際にボストンのラジオで流されていました。したがって、レコードはチャートを上り、そして下っていきました。

初めは、私はパフォーマーではありませんでした。それがどのようなものか、どう路上で受け入れられるか、どう人々のためにパフォーマンスされるか想像がつきませんでした。そして私が初めてパフォーマンスをした時、声を枯らさず、20分のパフォーマンスをすることができなかったのです。

それはつまり、どれだけ私がパフォーマーとして遅れているかということでした。しかし、私はそれに耐えました。私は作曲をし続けました。そして最終的に、『Something/Anything』(彼が作詞・作曲・楽器演奏も1人でこなしたアルバム)と呼ばれる、先ほど述べていた、突破口を得ました。

そのようななか、いくつかのヒットシングルがあった間、私にとっての最大のスリルは、メキシコのティフアナから放送される50万ワットのラジオ局を持っていたウルフマン・ジャックに会った時でした。彼は放送をLAから行なっていました。彼は私のチャンピオンとなりました。

そして、これはすべてのアメリカのラジオ局にとって違法行為だったのですが、彼はティファナからシカゴへ(音楽を)届けることができたため、私をたくさん助けてくれました。

私にとって、『Something/Anything』は大きなブームでしたが、人々は私を男性版キャロル・キングだというようになりました。私は彼女のファンでしたが、比べられることで、私をイライラさせました。みなさんは誰かと比べられたくないし、誰かだってあなた方と比べられたくないんです。

音楽においてもっとも大切なのは、自分自身を知ること

そして次の『A Wizard, a True Star』というレコードで、180度の方向転換をしました。『Something/Anything』の成功は続かなかったという批判をされ、レコード会社にも批判されました。

しかし、ここで2つ、心に留めてほしいことがあります。私は成功したレコードプロデューサーだったので、私自身のレコードの成功について無駄な心配をしなくても良かったのです。もう1つは、私は音楽を、以前考えていたよりも、何か異なるもののように見始めました。

私はみんなと同じように作曲していました。私は3枚のアルバムに高校時代にあった失恋の経験を投影しましたが、突然、「こんな女もう気にしない」と思いました。そして、私の経験から頭の中に音楽的にもっと大きなことがあると気づいたのです。

父がロックが嫌いで、家でそれを流すことをしませんでしたが、私はラヴェル、バーンスタイン、そしてギルバート・アンド・サリバンを聴いていました。みなさんのうちの何人かは、とくに若い時には聴いていなかった分野だと思うのですが、そのすべてが私を捉えました。そしてその時点まで、それに決して気づくことはありませんでした。

これは私の音楽的色付けにおいて、非常に重要な部分でした。私は本心を偽って曲を書いていました。ですから、私はクレイジーな『A Wizard, a True Star』というレコードを作ったのです。

その時に、今までレコードを作成してきたすべてのルールを投げ捨てました。そしてできる限り「みんなの利益のためにお金を稼ごう」という考えは排除して、私の頭の中にある混沌をレコードに刻み込もうと決めました。その結果は、私が先に述べた通り散々で、観客は半分に減ってしまいました。

しかし、トレント・レズナーが、このレコードが他のアーティストたちに大きな影響を与えたとコメントしたのです。ですから、私はこの無茶苦茶な試みに対して特別な誇りを持っています。商業的な成功を収めた後に、これが私の人生の手本になりました。

皮肉なことは、高校で私はまったく学んでいなかったことです。しかし、高校を出た時に、学ぶことを学びました。そしてそれ以来、私の目の前にある興味のあるものは、できるだけすべて吸収してきました。

したがって、私はどのように音楽表現の幅を広げていくかだけでなく、コンピュータープログラム、映像制作など、もし卒業の時点で考えることをやめなければみなさんが簡単に学べるようなさまざまなことを学びました。

今日何かが終わるように思えますが、これは何かの始まりの日にすぎません。偉業や成功と同様に、この式典に関して喪失感があると思います。人生で二度と会うことはないかもしれない友人たちに、別れを告げる場であるかもしれないのです。

しかし、音楽の世界で活かせるもっとも重要なことは、自分自身を知ることです。やっと、私は音楽が私に示してきた意味がわかったのです。何においても、自身の探求が一番なのです。自分のアイディアに対する客観的な目を持ち、耳を傾け、自分がホラ吹きかどうか気づくのです。自分が正しい方向にいるかどうかを探るのです。

私はここにいるみなさんを、この尊敬のなかで勇敢になるよう、この尊敬のなかで恐れを抱かぬよう応援します。私は批判によって声を荒げる能力を失いました。

今日あなたがすることが、実際にどう影響するのか、どのように未来に影響するかは決してわかりません。あの時、みんなにとって強い嫌悪だった『A Wizard, a True Star』というアルバムは、今、私のキャリアにおいてもっとも重要な瞬間だったのです。

そして私はみなさんが自由を感じ、ある時が来たら負うかもしれない恐怖を感じないことを祈ります。なぜなら、それが自身の決定的な大切な瞬間なのだとわかるかもしれないからです。もう一度、お祝いの言葉を言いたいと思います。おめでとうございます!


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